こんにちは、きなこぬこです。
今回は中山七里先生の「連続殺人鬼カエル男」を読んだ感想・考察についてまとめていきます。
ドラマ化されていた時に平積みになっていたところを見つけ、購入しました!
題名の「カエル男」って何だろうと気になっていました笑
個人的には先に「ヒポクラテスの誓い」を読んでいたので、光崎教授の登場にはテンション上がりました!
1.あらすじ
口にフックをかけられてマンションから吊るされ腐敗した女性の遺体。傍らには子供のような字で書かれた犯行声明が。その内容はカエルに対して非人道的な遊びをしたことを日記のように記したもので、遺体の状況に酷似していた。
その幼稚な残虐性による無差別殺人から、世間から「カエル男」として恐れられる。警察に捕まることなく次々と事件が起こっていき、日常を脅かされた人々はパニックに陥っていく。
以下はネタバレを含みます。
2.感想
複数回のどんでん返し!…からの、続きが心配になるオチが秀逸です!
物語も警察が犯人を捕まえようと奔走するにも関わらず捕まえることができず、世間の人たちが狂気に走る様はページをめくる手が止まりませんでした。
刑法には詳しくありませんが、精神疾患の鑑定が非常に曖昧であり絶対性がないことは医療職者として知っています。
判断基準(アメリカ精神医学会作成のDMS-5)はありますが、体に目に見えて現れる疾患と違い、心の病気は主観的なものが大きいので他覚的な評価がものすごく難しいんですよねぇ…
健常者と精神疾患を抱える人との境界はすごく曖昧であることがこの物語でも言及されていて、考えさせられました。
それにしても、作中での小手川の成長にはこころ打たれるものがありますね。
自分の功績だけを求めていた彼でしたが、守るべきものを守る大切さを知り、そしてそれらを守ることができなかった悔しさも学んでいます。
終盤に上司の渡瀬が小手川にかける言葉は胸が熱くなりました。
3.考察
1.刑法第39条の不条理
刑法第39条とは…
「刑事責任能力のない人は処罰の対象外とする、または、処罰を軽減する」
と作中では紹介されていました。
御前崎教授は以下のように話しています。
「裁判を受けるのは権利であり、罰を与えられて罪を償うのも実は義務ではなく権利なのだ。三十九条という法律は患者を救うのではなく、患者からその権利を奪うものではないか、と。そういう考えもあるのです」
刑法第39条により、精神疾患を有していると診断された犯罪者は責任能力がないものだとされますが…
作中でもこの法律に守られて過去の罪の罰を免れた有働と当真でしたが、再び罪を犯してしまいました。
御前崎教授が前述のように言うのであれば、刑法第39条は一体誰を守るためのものなのでしょうか?
この作品の論点はここにあるように感じました。
刑法第39条の存在自体が精神疾患を抱えた人を社会のルールから排除してしまう手助けをしているのではないかと思います。
精神疾患を抱えた人が犯罪を犯してしまったときに刑法第39条が適用されることで、精神疾患を持たない世間の人たちが「あの人たちは自分たちとは違うから」と、彼らと自分たちを区別することにより、自分たちを守るためのものともとらえられるのではないか、と私は考えました。
2.健常者としての境界線
先にも述べましたが、精神疾患の診断は非常に曖昧なもので、確定は困難な場合が多いです。
ですが誰もが精神疾患に陥る要素は持っています。
それらの特性の割合が自分や周りの人に問題ない範囲であれば、それが精神的な健常者であるのだと思います。
ですが、ストレスや環境の変化、体の不調等の様々な要因でそのバランスが崩れてしまったとき、それらの特性が自分や周囲の人たちの生活を侵害してくるのであれば、精神疾患である可能性が出てくる…つまり、どんな人でも精神疾患を抱えることになる可能性を持っているのです。
作中でも、恐怖で暴徒化した一般市民が警察に押し寄せてくる場面がありましたね。
抵抗できない警察官たちを一方的に攻撃し、物を破壊し、居合わせた無関係の人間も攻撃する…衝撃的なシーンでした。
彼らははたして精神疾患を有していない善良な市民なのでしょうか?
恐怖によって我を失っているというのは心神喪失ですし、やっていることは完全に犯罪者ですよね。
ともかく、健常者であったとしても、何等かのきっかけでたやすくその境界を飛び越えてしまうのです。そのことを何となく理解していながらも、精神疾患を抱えた人たちを自分たちとは違うものとして迫害することで、私たちは、自分は健常者であると思い込んでいます。
4.まとめ
いかがでしたか?
今回は中山七里先生の「連続殺人鬼カエル男」についてまとめさせていただきました。
最後まで読んでいただいてありがとうございました!
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