【「ふたりの距離の概算」米澤穂信先生(ネタバレ注意)】あらすじ・感想・考察をまとめてみた!古典部シリーズ5作目!

ミステリー(国内)

こんにちは、きなこぬこです。

今回は米澤穂信先生の「ふたりの距離の概算」を読んだ感想・考察についてまとめていきます。

古典部シリーズ5作目のこちらは長編ですが、章分けされていない短編のような感覚で読むことができます!

この作品以降のシリーズ作品はアニメ化されていませんが(2021年3月時点)、是非アニメ化してほしいですね!

あらすじ

マラソン大会前日の放課後、古典部に仮入部していた大日向友子は、入部しないことを告げて部室である地学準備室を去った。残ったのは本に熱中していたせいで状況が分からない奉太郎と、辛そうにしているえるの二人。彼女は何故突然入部を取りやめたのか、えるが原因で入部をやめたのか。マラソン大会の真っ只中で、奉太郎は大日向と出会ってからの出来事を思い起こして原因を考える。残された時間はゴールにたどり着くまでの時間。はたして、奉太郎は時間内に真相を見つけ出し、完走することができるのか。

以下はネタバレを含みます。

感想

今回も奉太郎の目線から描かれています。

いつも通り安定したおもしろさのある語り口調です笑

マラソン大会中に走りながら(途中歩いたりさぼったりしながら笑)ここ数か月の出来事を思い返して、大日向の真意を探り当てます。

彼女からしたら触れられたくないことだったのかもしれませんし、無理に彼女の問題を暴く必要はなかったのかとは思います。彼の省エネのポリシーからも外れることですし。

ですが、えるちゃんが辛そうに自分を責めているのを見て、彼女との1年以上の付き合いから彼女の人柄を考えた上で彼女を信じて動いた奉太郎はとっても素敵でしたね!

結果としては学外の出来事ですし、真相が分かったとしても解決することはできに事件でした。

それでも、奉太郎は大日向とえるちゃんの心を救うことができたんじゃないかと思います。

本編には直接関係なかったのですが、個人的には里志と摩耶花がお付き合いし始めてて嬉しくなっちゃいました笑

本当に良かったです笑

考察

気になった言い回し元ネタまとめ

古典部シリーズでは毎度のことであるとはいえ、米澤先生の言葉遊びが光る部分が今回も多く見受けられました。

浅学な私には難しい表現もちらほら……

ということで、今回個人的に分かりにくかったり知らなかったりした言葉遊びや表現について調べてまとめてみました。

良かったら参考にしてください笑

「外面は菩薩の如くなら、内面は決まっている……夜叉さ」

こちらは里志の言葉ですが、今回の物語の根幹に関わってくる重要なセリフです。

外面以菩薩内心如夜叉」という言葉からの引用で、顔は菩薩のように優しいが、心は夜叉のように恐ろしいという意味だそうです。

えるちゃんは外見も可愛らしく内面も美しいですが、強い芯を持った聡い少女だとは思います。しかし、夜叉と言われるような人物ではありません。

結果的の大日向の勘違いや思い込みから生じたセリフではありましたが、かなり変わった言い回しで印象的ですよね。

里志が続けて言った「好物がざくろだったかどうかは分からないな」というセリフは、鬼子母神という有名な女性の夜叉が、人間の子供を食べる代わりにざくろを食べていたことからの連想かと思われます。

ちなみに、ざくろは人肉の味がするとも言われていますが、これは日本での俗説だそうです笑

「黒い猫でも白い猫でも、菓子をくれるのはいい猫だ」

こちらは、奉太郎の家で誕生日会をした時の奉太郎の言葉です。

黒い猫でも白い猫でも、鼠を捕ってくるのはいい猫だ」という言葉のオマージュですが、この言葉は鄧小平という近代中国の政治家が唱えた、黒猫白猫論という思想の有名な言葉です。

階級制度の厳しかった中国において、どんな立場であれ結果を出せば評価するという意味ですが、奉太郎としてはお菓子をくれるのであれば誰でも良いという意味で使ったのかなと思っています笑

”ふたりの距離”って誰と誰の距離?

今回私は何の距離を表しているんだろうと考えながら読み進めてみました!

奉太郎と古典部メンバー+大日向

まず一つ目に、物理的距離のことを指しているのではないかと思います。

奉太郎はマラソン大会中に里志、摩耶花、える、そして大日向とのだいたいの距離と追い付かれる時間を計算しながら走っています。

「ふたり」という枠組みから外れてしまいますが、奉太郎とマラソン大会のゴールへの距離も含まれているのではないかなぁと思っています。

奉太郎のゴールまでの距離が文中に登場するのは素敵な演出だなと思いながら読み進めていました笑

えると大日向

えるは大日向の事情を知りませんでしたが、大日向はえるが自分の”友達”が関わった事を全て知られていると思い込んでいました。

一方えるは、大日向が部活に入らないことを決めた原因が自分が彼女の携帯を許可なく触ったことであると考えていました。

この二人はお互いの勘違いによりすれ違ってしまいました。二人とも相手との距離の測り方を誤ってしまいました。

したがって、この二人の間にある距離は心理的距離であると考えられます。

大日向と”友達”

「ふたりの距離を測り間違えている。ずっと、そう思っていたんです」

大日向の奉太郎に話したこの言葉が示す通り、この言葉こそがこの物語のタイトルの根幹であるかと思われます。

大日向が奉太郎に話したように、大日向が思っていた「友達」と、”友達”が思っていた「友達」は、同じではありませんでした。

作中で何度も「友達」という単語や、古典部メンバー同士の中の良さに過剰に反応していた大日向でしたが、最後にその理由が明らかになります。

古典部に入らないことを伝える前に、大日向はぶらさがって「手を離した方が楽なんですよね」と話しています。

これは、頑張って「友達」という関係に縋り続け手を伸ばすよりも、思い切って関係を切ってしまった方が、手を離してしまった方が、苦しまずにすむのではないかという葛藤から生じた言葉なのではないかと思います。

このことから、大日向は、ずっと大切な「友達」だと思っていた”友達”が罪を犯しても平気な顔ができる人物であることを知り、”友達”との関係は自分にとって「友達」ではないと思いつつも、「友達」という関係を手放すことが出来ずに悩んでいることが分かります。

加えて、世間一般には「友達」と呼べるような間柄の人物に対しても「友達」という単語を使っていないことから、”友達”だけを「友達」と呼ぶことにより、”友達”がまだ自分にとって唯一無二の「友達」であると言い聞かせているようにも感じました。

以上のことから、大日向と”友達”のあいだにある距離は、「友達」としての距離(ただし、お互いの定義が異なるため測り損ねている不確定な距離があると言えますね!

まとめ

いかがでしたか?

今回は米澤穂信先生の「ふたりの距離の概算」についてまとめさせていただきました。

最後まで読んでいただいてありがとうございました!

古典部シリーズの他の作品はこちら!

2作目 「愚者のエンドロール」

3作目 「クドリャフカの順番」

4作目 「遠回りする雛」

コメント

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