こんにちは、きなこぬこです。
今回は宇佐見りん先生の「推し、燃ゆ」を読んだ感想・考察についてまとめていきます。
第164回芥川賞受賞作品ですね!有名人も数名ノミネートされていた中で、大賞を射止めた作品です!
2021年本屋大賞もノミネートされています!
短いのですぐに読めますよ!
推しを推しまくる女の子のお話かと思って読み始めたのですが……さすがは芥川賞受賞作品。もちろんそれだけじゃありませんでした!
ADHDの診断を受けた私にとっては本当に本当に読んでいて何度も心が苦しくなったのですが……
読み終わってからもずっと辛い……
今回はそんな私の視点で記事書いていこうかなと思います!
あらすじ
ある日突然推しが炎上した。ファンを殴ったらしい。これまで自分の全てを捧げて推してきた推しの気持ちが分からず困惑する高校生のあかり。推しのために投資し、時間を費やし、バイトもしてきた。あかりに出来るのはそれだけだったのに。推しの炎上をきっかけに、ギリギリのバランスで保たれていたあかりの世界は少しずつ綻んでいく。
以下はネタバレを含みます。
感想
読むのしんどかったです……
文章は読みやすいし、内容も時代に即していてキャッチ―でとても新鮮で面白かったです!
でも、主人公の生きづらさとそれを取り巻く環境に共感できすぎて、本当に辛くなってしまいました。
推しが炎上した話からこんな話にもっていくとは、すごいですね。軽い気持ちで読み始めたので殊更衝撃を受けてしまいました笑
どの辺に共感したかは考察の方で詳しく書きますが……
私は発達障害という診断を受けたことを打ち明けた時、周囲の理解がありました。また、幸いにも勉強だけは人並みにできたので何とか今まで生きていますが、あかりの周囲には理解者がいないうえに、おそらくは学習障害も併発していて本当に辛いだろうなぁ……と思います。
ちなみに、発達障害の中にもいろいろ分類があります。私は不注意も多動も衝動性もありますが、不注意が一番優勢なADHDですね笑
普通に生きたいだけなのに、普通の人が普通にできることができなくて息が詰まりそうなんですよね。苦しくて辛いです。
でも、自分の特徴と向き合って、それなりに折り合いをつけて人間やっていかないといけないんですよね。あぁ……生きづらいなぁ……
私も「生きてて、えらい」って言われたい笑
考察
発達障害の生きづらさとあかりにとっての推しの存在
推しで自分を補って
先ほどもちらっと触れましたが、発達障害にも種類があります。
あかりの場合は、ADHDと学習障害の傾向があるんじゃないかと思います。
大前提として、発達障害はその人の個性であり、人格を否定されるものではありません。(自己弁護みたいになってしまいますが……)
私はADHDなので、主にADHDの話を中心に展開していきます。
あかりのように、好きなことに対しては全てを捨てて打ち込むだけの力があります。しかし、バランスが取れないので生活が破綻します笑
最低限を成し遂げるために力を振り絞っても足りたことはなかった。いつも、最低限に達する前に意志と肉体が途切れる。
作中に出てくるこの言葉が、私たちのことを端的に的確に示しているように感じました。
普通の人が普通に過ごすための努力はするけど、足りてないんですよね。でもこちらは真面目にやってるんです。だから、さぼってるとか手を抜いているとか、不真面目だと周囲に思われてしまいがちです。泣けます笑
そして、人並みの生活をすることがしんどいんです。
洗濯して、お風呂に入って、ごはんを食べて、食器を洗って、ごみを出して……
やらないといけないことは分かっていても、できないんです。不思議です。意識的にするように心がけていますが、心のバランスが崩れればいつでも破綻します。
あかりは推しを推すことについて以下のように考えています。
何かしらの苦行みたいに自分自身が背骨に集約されていく。余計なものが削ぎ落されて、背骨だけになっていく。
「背骨だけ」って印象的な言葉ですよね。
あかりの背骨だけとは、「存在しているだけの何か」という意味なのではないかと思います。肉は生活。普通の人が当たり前に営む、日々の暮らし。
彼女の自尊心は地面すれすれどころか地底に潜っているくらい低いところにあるんでしょうね。だから、自分に興味はない。期待もしない。ただいるだけの存在。すべては推しに捧げたと。
だからこそ、彼女を最も傷つけたのは、推しの引退でも結婚でもなく、見知らね女性が抱えた洗濯物でした。
ただでさえ普通に生活するのが難しいあかりがその全てを推しに捧げた血肉としての生活、その結果として手元に残らなかった自分のための生活、そして自分という存在を思い出した瞬間だったのでしょう。
推しを推して自分の価値を極限まで削ぎ落すという名目で、あかり自身は普通の人と同じように生活できないという目を背けていた事実を突きつけられたのです。
このシーンでやっと彼女は自分の中に目を向けることができたんじゃないでしょうかね。生きづらいだろうけど頑張ってほしい……
ADHDあるあるが詰め込まれたバイトシーン
見出しの通り、私が一番共感したシーンはこの料理屋でのバイトシーンです。
ADHDあるあるがこれでもかという程つめこまれていて、読んでいて他人事じゃなかった……
私も学生時代は飲食店でアルバイトしていたのですが、本当に覚えが悪くて大変でした。物事を覚えられないとか、暗記できないとか、そういうことではないのです。身体が動かないんです笑
ともかく優先順位を付けられないですよね……
アルバイトは周囲の根気強い支えのおかげで、最終的には何とか働けるようにはなりました笑
看護師もこういうわけで無理だなと思い退職を決意したのですが……
もっと早く気づいて進路変更しとけって話ですよね笑
*ちょっとした融通を聞かせることができない
ちょっと濃いめのハイボール作ってよと言われて戸惑うシーンからですが、私も臨機応変をどこかに落としてきたみたいなのですごく共感できました笑
*一度で済む作業を忘れて何度も往復する
たぶん、あかりも私と同じくワーキングメモリが弱いのでしょう。段取り考えて動きたいのですが一瞬でやらないとと思っていたことが全て吹き飛ぶんですよ。自分でも驚きです笑
*優先順位が分からない
レジや注文でお客さんに呼ばれたり、こぼした飲み物の処理で呼ばれるあかりですが何もできてませんでしたよね。焦るだけで何をしたらいいのか分からなくなり、ブレーカーが落ちたように思考停止するんです。分かります笑
……と、いうわけで。個人的に痛いほど共感できたシーンでした笑
あと、周りに急かされたり、落ち着くように声をかけられたりするとさらにパニックに陥ります笑
こういう臨機応変さが求められるお仕事がいかに向いてないかというお話ですね笑
書いていて悲しくなってきました……
綿棒とお骨ひろい
肉を削り骨になる、推しを推すことはあたしの業であるはずだった。一生涯かけて推したかった。それでもあたしは、死んでからのあたしは、あたし自身の骨を自分でひろうことはできないのだ。
(中略)
綿棒をひろった。膝をつき、頭を垂れて、お骨をひろうみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった。(中略)その先に長い道のりが見える。
最後の方のシーンですね。
洗濯物を抱えた見ず知らずの女性を見てショックを受けたあかりは、自室に戻ると綿棒をケースごと床に叩きつけます。そして、丁寧に自分でひろい始めます。
これは、綿棒を骨に見立てて、そのケースを骨だけが残っている推しを推してきた今までの自分自身として、自らの手で自分を壊し、そして生まれ変わろうとしているのでしょう。
あかりは、このシーンで作中初めて自分自身に感情を向け、自分自身で行動を選択しています。
自分が今まで殺してきた自分の生活と自分自身の存在を悼み、丁寧にひろっています。
この儀式によって、彼女は少しずつ自分の中に帰っていきます。
背骨だけではなく肉の付いた自身の身体を認識して「身体は重かった」と感じ、「二足歩行は向いてなかったみたい」と生きづらさを揶揄しながらも、推しがいなくなったこれからのことをしっかりと見据えて前を向き始めました。
自分の力で自身の破壊と再生を行ったあかりが、どうか少しでも彼女らしく生きていけますように……と思わず願ってしまうラストでしたね。
まとめ
いかがでしたか?
今回は宇佐見りん先生の「推し、燃ゆ」についてまとめさせていただきました。
最後まで読んでいただいてありがとうございました!
コメント
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Good !
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