【「くるみ割り人形とねずみの王様」E・T・A・ホフマン先生(ネタバレ注意)】あらすじ・感想・考察をまとめてみた!

名作(海外)

こんにちは、きなこぬこです。

今回はE・T・A・ホフマン先生の「くるみ割り人形とねずみの王様」を読んだ感想・考察についてまとめていきます。

ずっと読みたかったこの作品!

いろんな本屋さんで探したのですがなかなか見つからず、普段はあまりネットで本を購入しないのですがどうしても手元に欲しかったにので初めてamazonで発注しました!

さすがはamazon!なんでもそろっていますね笑

アニメ「PSYCHO-PASS サイコパス 3」に登場する犯罪者:梓澤廣一が愛読していたことが一時期twitterでも話題になっていたのですが入手できず、話題に乗り遅れてしまいました笑

そんなことも忘れかけていたところで小林泰三先生の「クララ殺し」を読んでこの作品を結局読んでいなかったことを思い出し、手に入れました!

ファンタジーが久々だったので少し時間を要しましたが、心おどる不気味なメルヘンの世界を楽しむことができました。

 

あらすじ

くるみ割り人形とねずみの王様

表題作。クリスマスにたくさんのプレゼントをもらった幼いマリーは、その中の一つ、くるみ割り人形を一目で気に入ってしまう。その夜、ねずみの王様たちに襲われたマリーを助けたのは、マリーの人形たちを率いたくるみ割り人形であった。

見知らぬこども

大自然に囲まれて自由に暮らしているフェーリクスとクリストリープの兄妹の家に、ある日都会に暮らす従兄妹が訪ねてくる。彼らの教養のある姿と比べられて嫌な思いをするが、たくさんの素敵なおもちゃをもらう。おもちゃを気に入った二人はそれらを手に森へと遊びに出かけるが…

大晦日の夜の冒険

大晦日の喧騒を疎ましく思う主人公は、誘われたパーティーに出向く。そこでかつての恋人である美しい女性、ユーリエと再会し、恋心が再燃する。しかし、彼女が既に結婚していることを知ってしまう。ショックを受けてパーティーを飛び出し一人パブに入った主人公は、そこで不思議な男たちと出会う。

以下はネタバレを含みます。

感想

読みたくて読みたくて手に入れた本だったので、読みだしたときの感動はひとしおでした笑

全編通して年末に読みたくなる物語ですね。

前二編はクリスマス、最後は大晦日でした。

この時期ってイベントが重なって忙しくも楽しいイメージが強いですね。

ですがホフマンの物語はその喧噪の楽しさや煌びやかさを閉じ込めつつも、そこに不気味で不穏な空気感というスパイスも加えることで独特の世界観を作り出しています。

「クララ殺し」の作中ではこの不気味さや不穏さをそのまま表現していたことに気づき、先にこちらの作品を読めていたらさらに楽しめたのではないかと思いました。

この作品にスパイスを加えている存在は正体不明のおじさん美女です。

「くるみ割り人形とねずみの王様」ではドロッセルマイヤーおじさんが、「見知らぬこども」では都会から来た家庭教師であるマギステル・ティンテが、そして「大晦日の夜の冒険」では美しい女性たちが、現実世界とメルヘンな世界をつないでいます。

彼らのおかげで、きらきらしているだけではない不思議なメルヘンが出来上がっていますね!

ホフマンのほかの作品も是非読んでみたいと思いました!

考察

くるみ割り人形とねずみの王様

夢見がちな女の子である少女マリーはくるみ割り人形に恋をし、ねずみたちに襲われたときに自分を助けてくれたくるみ割り人形を、自身も懸命に守り抜きます。

自身の献身、思いに応えてくれるくるみ割り人形の存在は、自分が望んだ者が自分が望んだとおりに思いを返してくれる人です。

しかし、現実では彼女の兄も父母も彼女の体験したことを信じてくれません。

誰でも自分の中に自分だけの世界を持っているものです。

しかし、その世界は現実と乖離していってしまいます。

現実は自分の思い通りにならない、不条理なことであふれています。

それでも、だれもが自分が特別な存在であると信じていたいという気持ちを持っています。

くるみ割り人形が自分のこと身を挺して守り抜き、お菓子の国へと誘ってくれる世界は、特別な存在でありたいと願うマリーが創造した世界なのではないでしょうか。

それを見る目さえあれば世にもすばらしくふしぎな事物を見ることができる、一国の王妃であるという。

これは物語の最後の言葉です。

マリーの純粋な心と想像力によって見えている世界を示しているように思えます。

この言葉から、この物語が終始マリーの想像上の世界であるという可能性が裏付けされているのではないかと思います。

まぁ、そもそもメルヘンな世界観について現実か否かを論じるのはナンセンスdしたね笑

すみませんでした笑

見知らぬこども

この物語で印象的なのは、自然豊かな田舎で自由に生きるフェーリクスとクリストリープの兄妹と、都会から来た存在との対比です。

”お上品な”従兄妹たちが都会から来た場面では、その違いが色濃く描写されています。

彼らは「お行儀よく」、「教養がある」子供たちでした。

対してフェーリクスたちは従兄妹たちのように教育を受けていないため、お行儀よくじっとしていることができませんし、たくさんの知識を披露することもできません。

彼らはお互いを見下しています。

まぁ、育った環境や周囲の人間がこうも違えば理解しあうことは非常に難しいとは思いますが…

では、教養がないことは悪いことなのでしょうか。

そもそも、教養とはいったい何なのでしょうか。

教養は、他人にひけらかすものではありません。

自分の人生を豊かにするために積み重ねていくものだと思います。

では、教養があるとは知識を多く持っていることでしょうか。

私は、フェーリクスたちが知る大自然の美しさや素晴らしさ、そしてそれらを自らが感じた体験も教養といえるのではないでしょうか。

要するに、教養とは単に知識のことを指すのではなく、その人の持つ感性や体験の積み重ねも広義では含まれるのではないかと思います。

ホフマンは世間一般に教養人とされる人間に対し、問いかけたかったのかなと思いました。

大晦日の夜の冒険

訳者の解説にもあるように、ほかの二編に比べると大人向けの、「世にも奇妙な物語」のようなお話です。

惚れた絶世の美女に自分の半身である鏡像や陰影を奪われてしまうお話ですが、奪われるものが物や臓器ではなく自身の体の現身」というところが面白いですね。

大人の世界で酒場という俗世にまみれた舞台でも、メルヘンがありえるのですね笑

まとめ

いかがでしたか?

今回はE・T・A・ホフマン先生の「くるみ割り人形とねずみの王様」についてまとめさせていただきました。

最後までよんでいただいてありがとうございました。

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