【「海と毒薬」遠藤周作先生(ネタバレ注意)】罰は何から与えられるものなのか!?勝呂は物語の特異点!?あらすじ・感想・考察をまとめてみた!

こんにちは、きなこぬこです。今回は遠藤周作先生の海と毒薬を読んだ感想・考察についてまとめていきます。

今作は第5回新潮社文学賞第12回毎日出版文化賞を受賞しています!

また1986年には勝呂役:奥田瑛二さん戸田役:渡辺謙さん映画化され、ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞しています。

作品の元ネタになっているのは九州大学生体解剖事件です。

九州大学生体解剖事件(きゅうしゅうだいがくせいたいかいぼうじけん)は、第二次世界大戦中の1945年に福岡県福岡市の九州帝国大学(現九州大学)医学部の解剖実習室においてアメリカ軍捕虜に生体解剖(被験者が生存状態での解剖)が施術された事件。相川事件ともいわれる。

wikipedia-九州大学生体解剖事件

あらすじ

第二次世界大戦中、空襲で毎日たくさんの人が死ぬ世の中で、研修生の勝呂と戸田は九州のとある大学病院で患者を診ていた。医学部長が亡くなったことで病院内では権力争いが起こり、二人は師事していた医師に誘われて、軍の指示で外国人捕虜を生きたまま生体解剖する実験に参加する。それぞれの苦悩を胸にこの実験に参加した彼らの心を描き出す。

今回私は角川文庫から出版されているかまわぬコラボカバーのものを購入しました!

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以下はネタバレを含みます。

感想

今作は実際に戦時中に起こったショッキングな事件をモチーフにした作品ですが、読んでいてどんどん心が沈んでいったものの、登場人物たちそれぞれの葛藤や事件に対する意識に関する繊細な心理描写に圧倒され、最後まで止まることなく読み進めることができました。

病院内に蔓延した集団心理による同調圧力や戦争という異常な状況下での倫理観の破綻という、いくつもの要因が重なることで生体解剖へと突き進む中、周囲に流されてしまうもののある程度の倫理観を持つ勝呂と、全く罪悪感を感じない自分に不気味さまで覚える戸田の対照的な二人をメインに物語が進んでいきます。

私も自分の中にはある程度の倫理観はありますが、それはふんわりしたもので、きっと勝呂や戸田と同じように周囲の人たちが持つ倫理観や社会、法律、そして時代によって変わる価値観に大きく左右されるものでしかありません。

さらに、キリスト教徒ではない私は、罪を犯した時に自分を罰するものは神ではなく法律だと思っています。このことから、私は法律で違法だと定められていることをするのは罪である、と認識していたことに気付いてしまいました……何にせよ、自分が罪に対してどのような意識を持っているのかという普段考えないことを考えるきっかけになって良かったです。

考察

神の認識の違いと罰への意識

以下は今作のテーマについてのwikipediaからの引用です。

成文的な倫理規範を有するキリスト教と異なり、日本人には確とした行動を規律する成文原理が無く、集団心理と現世利益で動く傾向があるのではないか。小説に登場する勝呂医師や看護婦らは、どこにでもいるような標準的日本人である。彼らは誰にでも起き得る人生の挫折の中にいて、たまたま呼びかけられて人体実験に参加することになる。クリスチャンであれば原理に基づき強い拒否を行うはずだが、そうではない日本人は同調圧力に負けてしてしまう場合があるのではないか──自身もクリスチャンであった遠藤がこのように考えたことがモチーフとなっている。

wikipedia-海と毒薬

上記のように、今作は倫理観や良心から逸脱した行動に対する罪の意識はどこから来るのかが主題となっています。以下は引用部分を参考にし、橋本医師の妻でありドイツ人のヒルダ夫人のようなキリスト教を信仰する人々をクリスチャン、戸田や上田看護師のように集団心理に流されて行動し罪の意識を持たない人々のことを標準的日本人と定義して考察をしていきます。

両者の違いはまず、神に対する認識の違いが根底にあるのではないかと考えました。

キリスト教において神とは唯一絶対の神であり、人間を見守り加護を与える存在です。対して、日本人にとっての伝統的な神とは八百万の神であり、キリスト教に比べてより神は身近な存在であると考えられています。このことから、クリスチャンと標準的日本人では神に求めている役割が異なっていることが分かります。

作中でクリスチャンと標準的日本人の神に対する認識の対比がより明確に表れているのは、上田看護師が自然気胸が発現した患者を医師に指示された通り殺害しようとしたシーンでしょう。その行動を見たヒルダが上田を止めて、以下のように詰問します。

「死ぬことがきまっても、殺す権利は誰にもありませんよ。神さまがこわくないのですか。あなたは神さまの罰を信じないのですか」

この言葉を投げられた上田自身は元々ヒルダのことをよく思っていなかったこともあり全く聞き入れませんでしたが、作中でもかなり印象的なセリフかと思います。ヒルダは登場人物で唯一のクリスチャンであることから、作中ではクリスチャンを代表している人物と考えられます

上田とヒルダのこの一件から分かるのは、上田とヒルダが恐れているものは異なっていることです。上田が恐れているのは医師の指示に従わなかったことで罰を受けることであり、患者を自らの手で殺すという倫理に反した行いをすることではありません。対して、ヒルダはキリスト教の倫理に反する行為をすることで神から罰せられることを恐れています。上田が従った医師の指示とは、所属する集団の上に立つ人間である人間からの指示です。この上田の罪の意識を持たずに人を殺そうとした行動は、勝呂や戸田が上司に解剖実験に誘われて罪の意識を持つことなく参加を決めたことと同じです。集団心理は集団に所属する人々によって形成されるものであるため、普遍的なものではありません。

作中で自身の中に規範となる倫理観を持っていない人間として表現されている標準的日本人は、捕虜を生きたまま解剖することは倫理的に問題がないという、所属している集団が形成した倫理観に従い行動しています。彼らが恐れているのは集団から罰せられること、すなわち集団からの排除であって、クリスチャンからすれば非倫理的な行いであったとしても、集団内で罰せられることがなければ罪の意識を感じないのです。

以上のことから、「成文的な倫理規範を有する」クリスチャンと「集団心理と現世利益で動く傾向がある」標準的日本人は、罪を犯した時に何を恐れるのかが異なっており、そこから罪悪感に対する認識や罪を何によって罰せられるのかの認識の違いが生じるのではないかと考えました。

勝呂という特異点

標準的日本人とクリスチャンの中間にいるのが勝呂であり、彼はこの物語の中でどちらにも属しておりどちらにも属さないという特殊な立ち位置にいます。

勝呂は集団心理に流されて捕虜の生体解剖実験に参加してしまいますが、自身の中の倫理観と葛藤し、罪の意識に苛まれます。彼は標準的日本人らしく集団心理に同調しながらも、クリスチャンと同様に自身の倫理規範を持っています。

勝呂は担当患者の「おばはん」が死んだ時に以下のように発言しています。

「俺にはもう神あっても、なくてもどうでもいいんや」

これに対し、戸田は「おばはんも一種、お前の神みたいなものやったのかもしれんなぁ」と返しています。勝呂は毎日戦争で多くの人が命を落とす中でもおばはん1人の命を何とか救いたいと頑張っていました。そんなおばはんが死んだ時、勝呂は無力感と喪失感を感じたのではないかと思います。

おばはんを救おうとしていた勝呂の行動は他の医師から評価されておらず、危うくおばはんは無駄な手術を受けて殺されてしまうところでした。そのため、おばはんのために手を尽くす勝呂の行動は集団心理に流されたものではなく、勝呂自身の良心に基づいた行動であったことが分かります。おばはんは勝呂の良心による行いを見るただ一人の人物であり、だからこそ勝呂にとっておばはんは自身の行いの善悪を判断する神のような存在だったのかもしれません。

まとめ

いかがでしたか?今回は遠藤周作先生の「海と毒薬」についてまとめさせていただきました。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

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