【「ブラックボックス」砂川文次先生(ネタバレ注意)】あらすじ・感想・考察をまとめてみた!第166回芥川賞受賞作!未来への漠然とした恐怖と諦念は誰もが持っている?

日常

こんにちは、きなこぬこです。

今回は砂川文次先生の「ブラックボックス」を読んだ感想・考察についてまとめていきます。

今作は第166回芥川賞受賞作です!

あらすじ

東京都内でメッセンジャーとして自転車で駆け回るサクマ。怒りに任せて行動してしまうことで仕事を転々としていたが、心の中ではずっと「ちゃんとしないと」という漠然とした焦りを感じていた。遠くへ行きたいと願いながら、変わらない毎日を繰り返す。それを抜け出す方法は、分からない。

以下はネタバレを含みます。

感想

非正規雇用で肉体労働をしているサクマは先の見えない将来に対して漠然とした不安をずっと抱いています。コロナウイルスが流行して世の中が変わったことで殊更に先行きが不透明になった社会ですが、そうでなくても自分の将来に対して何の不安も抱いていない人間はいないのではないでしょうか? サクマが終始感じていた将来への不安や自身の立場の脆さへの恐怖、このままではいけないという焦燥感にとても共感しました。

私個人としては、看護師を辞めた自分は看護師免許以外のスキルを持っておらず、医療職以外の社会経験がないことも私でとても不安を感じていました。幸いにも現在は医療職としての経験を活かした仕事をさせていただいていますが、この先どうなるのかという不安は継続しており、このままで大丈夫という保証はどこにもないとも感じています。私自身がこのような境遇だからこそサクマの立場や感情と共通する部分があり、サクマが感じる漠然として将来への不安や「ちゃんとする」ことを願う気持ちは、痛いほど分かりました。

とはいえ、私は今のところ犯罪を犯すことなく何とかやっています笑 もちろんちゃんと納税もしています笑 ですが、自分の思い描いていたルートから外れてしまったため、その修正のために何をするべきかを模索中であることは同じです。

サクマは怒りに任せて行動してしまう人、つまりアンガーマネジメントが苦手な人なのではないかと思います。終盤で彼が感じていた自分の「怒りの感情」との付き合い方を刑務所内で少しずつ覚えて、何をしたらいいか分からないけどなんでもできる刑務所の外の世界に戻った時には彼がやりたいことをして生きていけることを願っています。

考察

「ちゃんとする」とはどういうこと?

作中のサクマは、ずっと「ちゃんとしなきゃ」という焦りを感じている様子が描かれていますよね。しかし、その思いは一時的なものであり、何かの拍子に意識に浮かんで何かしないとと考えるものの、すぐに忘れてしまいます。この「ちゃんとする」はあまりにも抽象的で、具体性がありません。だからこそ、サクマ自身も「ちゃんとする」とは具体的にどうすることであるのかを定義できていない様子でしたね。

サクマは何か嫌なことがあると怒りに任せて行動してしまい、その時の社会的立場を失うという行動を繰り返しています。感想でも触れましたが、彼は感情のコントロール、アンガーマネジメントができない人間なのでしょう。最終的に彼は刑務所に入るほどに怒りに身を任せて行動してしまいます。このことから、彼が考える「ちゃんとする」ことのひとつとしてアンガーマネジメントができるようになることが挙げられると思います。

サクマにとって、保険をかけることや健康診断を受けること、納税することは「ちゃんとする」ことだと話しています。サクマはこのような一般的な社会人が当たり前にやているようなことを、自分が他の人と同じように当たり前にできていないことに負い目を感じてるのではないかと思います。また、自分が属している団体の空気を読んで順応することも、サクマにとっての「ちゃんとする」こととして描かれています。このことから、「ちゃんとする」ことのひとつとして一般的な社会人が当たり前にやっていることを自分もすることが挙げられるのではないかと思います。

以上のことから、サクマの言う「ちゃんとする」という言葉を具体的にすると、①アンガーマネジメントができるようになること②一般的な社会人が当たり前にやっていることを自分もすること、の二つの意味が含まれているのではないかと考えました。

しかし、もう一段深く考えてみたいと思います。

サクマは何か嫌なことがあると仕事を辞めています。また、怒りに支配されてしまうことに対して抵抗することなく、身を任せてしまいます。サクマ自身も以下のように考えています。

これも感情の決壊と同じで、自分との約束を反故にすればするほど、その行為自体に慣れてしまうのだ。

また、普通に働く人たちに対して以下のような感情を抱いています。

結局何かが「ある」ことは当然に見えていて、それでいてそこと関わることは絶対にできない、と思い知らされるだけのことだ。

これらのサクマの言葉から、彼は何に対しても諦める癖がついてしまっていたのではないかと思います。

①のアンガーマネジメントについて、彼は怒りを押しとどめようとしていたこと語っています。しかし、その努力は成功することなく問題を起こすことを繰り返していました。この場合、できないことを繰り返すよりも他の方法を試してみる方が良いと思うのですが、サクマはそのことを考えず自分が怒りをコントロールできないことを諦めていました。彼は物語の終盤で自分の「怒り」のエネルギーとの付き合い方に今まで自分がしてきた方法以外の道があったことに気付くことができています。

②の一般的な社会人がしていることもすることについては、納税も健康診断も保険も、彼にとってはそれらをこなすための具体的な方法が分からず、考えようとしても言葉を聞くだけで拒否反応を起こしてしまっている様子でしたよね。彼はどうすれば良いのかを考える前に、考えること自体を放棄してしまっています。

上記のことからサクマにとって「ちゃんとする」というのは、本当は①や②のような具体的なことも含まれてはいるもののそれだけではなく、①や②のような今まで努力しても成し遂げられなかった物事に対しても目を逸らすことなく、諦めずに向き合うことだったのではないかと考えました。

「どこか遠くへ行きたい」にこめられた願い

サクマは先ほど考察した「ちゃんとする」に加えて、「遠くに行きたい」ということも繰り返し考えていましたよね。「遠くに行く」とは一体どこへ行くことなのでしょうか?

サクマは作中で以下のように説明しています。

遠くというのはずっと距離のことだと思っていた。(中略)遠くに行きたいというのは、要するに繰り返しから逃れることだった。

このことから、どこか遠くというのは現実に遠くに行くことではなく、繰り返される日常から抜け出すことであることが分かります。しかし、サクマにはどうしたら繰り返される日常から抜け出すことができるのか分かりません。とにかく目の前にあることに全力を傾けていますが、自分が今している努力が将来的に「遠くへ行く」ことに繋がるという保証がないために不安を感じています。

さらには、サクマは今の現状から抜け出すことでさらに不安定な状況になることに対しても強い恐怖を抱いていることに気付きます。一方、刑務所で毎日与えられたタスクをこなすことで出所に近づくことに安心感を感じます。

ほとんどの人間は実のところ自由など求めていない。なぜなら自由には責任が伴うからである。みんな責任を負うことを恐れているのだ。

フロイト

上記の言葉のように、サクマも自由になることを願いながらも、自分がやるべきことを決めてくれる存在を求めていたことに気付きます。自由とは自分で自分の責任を持つことであり、自分の意志を持ち、自分で考えることなのではないかと思っています。サクマは自分の行動に対して責任を持つことを避けてきたのではないかと思います。

明日が分からないということ、昨日と似てはいてもやっぱり今日と明日は違うということはむしろ当然であって、そういう日々を放って一生担保された塀無き刑期を本当は欲しくないのに求めていた。

サクマが毎日同じと思っていた繰り返しの日常は、実は彼がずっと願っていた「どこか遠く」という言葉が意味する未知の世界、見通しの立たない未来を含んでいたことに、彼は刑務所に入ることでやっと気づくことが出来ました。

以上のことから、サクマが言う「どこか遠くに行きたい」に込められていたのは、最初は現状を打破して新しい世界へ飛び込むこと、つまり現状から逃げ出したいという願いでした。しかし、彼が本当にやるべきだったのは、自分の今いる状況から目を逸らさず、何の保証もない、予測することもできない未来に対する恐怖を受容できるようになることだったことであり、彼はそのことに気付くことができました。

物語の最後の「どうなるのか誰にも分からない。それでいい」という言葉は、このサクマの気付きに基づいた言葉なのであろうと思います。

まとめ

いかがでしたか?今回は砂川文次先生の「ブラックボックス」についてまとめさせていただきました。

最後まで読んでいただいてありがとうございました!

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